境内案内/四十七士墓所


四十七士墓所

赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されました。
ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑶泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のち江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83才の天寿を全うしました。現在も曹渓寺に眠っています。
泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものです。
また、いわゆる47士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります。(明和4年(1767年)9月建立)
したがって泉岳寺の墓碑は48あります。



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